君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

ジェンダーフルイド生活記

情報が足りない。

Googleで「ジェンダーフルイド ブログ」で検索してみたら、自分のブログの過去記事がかなり上位にヒットしたことに驚いた。
あとの検索結果は概ね「ジェンダーフルイドとは?多様な性のひとつです!LGBTQ!」的なごく簡単な用語説明の記事と、「ジェンダーレス」の類義語として本来の意味とは離れて使用されるファッション関係の記事ばかり。当事者の語りはあっても片手で数えられるほどだけ。
改めて、ジェンダーフルイド当事者がどうやって自分の性別と折り合いをつけて生活しているのかという、現実の語りがあまりにも少なすぎると愕然とした。※1

なので、ここに私個人がどのように性別と折り合いをつけて生活しているかを記録したい。
以前自分のジェンダーアイデンティティについて触れた記事を書いたら、Twitterで知らん人間から好き勝手言われたのにかなりイラついて、それ以降は自分のSOGIについて書く手が止まっていたのだが、現状のジェンダーフルイドに関する情報の少なさが見過ごせないので書くことにする。
以下を読んで何か自分の話をしたくなった人がいたら、私の文章を引用して何か言った気になるのではなく、ぜひ自分で文章を書いてブログなりなんなりに載せて欲しい。そしたらインターネットでアクセス出来る情報が増えるから私が嬉しい。



【※注意※】以下の文章は私がインターネットに書き残したくて自発的に書いているだけであって、このような個人的な話を開示したくない人も大勢います。当事者のプライベートを不躾に質問責めにするのは大変失礼なのでやめましょう。
また、ここに書かれているのはいち個人の体験であり、全てのジェンダーフルイドについて当てはまる保証はありません。人それぞれである人生の体験の差異を他者のジェンダーアイデンティティの正当性を疑う材料にするのは絶対にやめましょう。



性自認が流動的であることについて】
流動的であることで一番恐れている誤解に対して先手を打っておく。

他の人がどうなのかは知らないが(情報がないので!)、私はジェンダーフルイドだからといって、自分の性自認を意図的にコントロールすることは出来ない。

私は、流動的であることを「選んだ」訳ではない。選べるのなら、揺れ動かない性自認が欲しかった。
性自認が流動的だと、「どのような性別で人生を生きるか」の軸足が非常に定めづらいなと感じている。
私は男女どちらでもないタイプのノンバイナリーに軸足を置いているが、もしかして女性として生きられるんじゃないかという時も、もしかして男性として生きたいんじゃないかという時も、どちらも無理!私はどちらでもない!という時もある。変動する周期は数日の場合も、数週間の場合も、数ヶ月の場合もある。
「男に生まれたかった」と泣いて泣いて身体を痛め付ける日もあれば、「女性」と呼ばれても薄ら笑いで受け流せる日もあるし、どの性別にも帰属意識を持てずに心許なく不安になる日もあるし、ただ渋い顔で黙って現実を飲み下す日もある。
性自認に合わせて身体を変えたいと願う日もあれば、身体に合わせて性自認を変えたいと願う日もあるし、服装や髪型を変えて調節することでしっくり来る日もある。

それらの経験は全て嘘ではない。気の迷いではない。若気の至りではない。その日の気分ではない。ファッション感覚の選択ではない。繰り返すが、自分ではコントロール出来ない。
けれど、男女二元論に強く支配される社会の中では揺れ動く性別は、嘘で気の迷いで若気の至りでその日の気分程度のものでファッション感覚の選択だと思われがちだ。

一貫して突き通せるほど確固として「私はこの性別だ!」という確信があれば、嘘つきだと思われなかったかもしれないのに、とよく苦しくなる。もしかしたら、自分の性別を世の中に信じてもらえないのが一番苦しいのかもしれない。


【カミングアウトと社会から扱われる性別について】
職場での私は髪を短く切ってメンズスーツを着て仕事をする日もあり、そのような装いを受け入れられている一方で、上司からは初対面の客人の前で「彼女」という三人称で呼ばれ、「女性陣はこっちね~」と振り分けられる。

カミングアウトは長年の付き合いでほぼ身内状態になっている上司にのみ何年も前にしたのだが、忘れているのかあまり本気で捉えられていないのか、私が20代と比較的若いのもあって「年齢を重ねるとともに(シスジェンダーに)変わっていくだろう」と思われている節がある。

今の職場は服装自由で、私の服装は日によってだいぶ幅がある。男性寄りの表現をすることもあるし、女性寄りの表現をすることもあるし、その両方を組み合わせることもある。ジャケットやパンツスーツも着るしTシャツとデニムも着るしワンピースも着る。身体のラインを隠すことが多いが出すこともある。
髪は性別への不合感が耐えきれなくなったら自分でザクザク切って、また耐えきれなくなるまでは放置して伸びていくのを繰り返している。
非常に好ましくない状況ではあるのだが、服装のジェンダー表現にだいぶ幅があることが、カミングアウトを本気で受け取られない一因になってしまっている空気を周囲から感じている。

改めてカミングアウトし直す気はない。自分のややこしいジェンダーを説明して受け入れられるとは思えない。排除はしないが配慮もしない、という消極的に無視された空気だが、排除されないだけマシなのだ。
今の職場にたどり着くまでは、働いてはすぐ辞めて次の仕事はなかなか決まらず長らく無職……のループに陥っていた。発達障害による不適応が大きな要因ではあるが、「(男女に振り分けられた)制服が着れない」「(最低限のメイク、オフィスカジュアル、落ち着いた髪色などの)服装規定のある職場がどうしても無理」という理由もあり、求職活動をしていた時期は難航を極めていた。
そんな道のりの末、排除されずに続けられる仕事があるだけで奇跡的なので、現状維持に努めている。どちらかというと諦めに近い。


【身体との折り合いについて】
私は、身体の状態を望む性別に近づけるためのホルモン投与や外科手術などはしていない。今後の人生でどうなるかは分からないが、少なくとも現在は「しない」という選択をしている。

果たして本当に「しない」という選択なのか、「できない」という諦めに追いやられているのかは、正直自分でも判断しかねる。
「したい」という気持ちがあるけど「できない」のか、「したくない」という気持ちがあるから「しない」のか、二つを天秤にかけたところでどちらかにハッキリ分けられるものではない。私にとってはどちらも本当なんだろう。

だから前者と後者をトランスジェンダー/シスジェンダーに二分する論調にはとても居心地が悪くなる。私は身体的移行とそれに伴う社会的移行を経験することはないし、だからといって『多様な女性』の中にも入りきれない。私はきれいに切り分けられる存在ではなく、その中途半端さはどちらの理念にとっても都合が悪い気がしてならない。


【揺らぎ続ける性自認と「ジェンダーアイデンティティ」】
私は生来の性格的に、曖昧なものが苦手だ。白黒ハッキリさせない考え方が不得手だ。だから性自認が曖昧な自分が許せない。許せなくて受け入れられない。許せなくて受け入れられないから、揺らぐたびに精神的に動揺して振り回される。あぁ、また変化した。今度はどれぐらいこの状態が持続するのかな。このままの性自認で変わらずに一生を過ごしたい。

それでも私は、自分の性自認が揺れ動き続けるのをもう嫌というほど知っている。


私には「私は性自認が流動的である」という確固たる確信がある。この先の未来も一貫して揺れ動き続ける確信がある。
それが「ジェンダーフルイド」という「ジェンダーアイデンティティ」なのだ、私にとっては。※2





※1 ここではTwitterの検索結果は含まないものとする。何故なら2022年3月現在のTwitterトランスジェンダーに対する差別的・攻撃的なツイートがあまりにも多すぎるので、私は精神衛生を保つためにTwitterではSOGIに関する検索を一切していないからだ。トランス・ノンバイナリー当事者が安全にアクセス出来る情報源として、Twitter以外の場が必要だと切に感じているので私ははてなブログに書く。

※2 今回は「性自認」と「ジェンダーアイデンティティ」のニュアンスを自分なりに分けて書いた。詳しく説明はしない(私は自分のSOGIを『証明』するために説明し続けるのにもう心底うんざりしている)ので、読み取ってくれるとありがたい。

春の病

春が近づいている。私は毎年春先にメンタルの調子を著しく崩す。今年も春がやってくる。

仕事に行きたくないけど欠勤したら仕事を休んだ罪悪感でさらに死にたくなるだろうから仕事に行く。今日は絶対手抜いたるぞ!と思いつつも職場に着くとつい目の前の仕事を次々こなしてしまう。いけない、頑張ってしまった。昼から早引きをする。帰宅した瞬間急に泣き出す。頓服を飲む。布団から出たくない。布団から出られない。部屋の灯りがつけられない。薄暗い部屋じゃないと落ち着かない。ウトウトする。ふわふわの毛布に包まれる。大森靖子の「あまい」や「呪いは水色」を脳内で鳴らす。あぁ、支払いがあるのに今日もコンビニに行けなかった。明日こそはコンビニに行きたい。職場の上司兼メンターに連絡をした。体調が悪いです、あと1ヶ月と少し続きそうです、今から3月いっぱいまでは無理せず休み休み働きます。上司兼メンターは決して甘い言葉はかけないけれど労りや優しさがあって、障害特性への配慮に理解がある。布団の中から報連相を済ませてまたふわふわの毛布に包まれる。大きなやわらかいクッションを抱き締める。あたたかい存在を抱き締めたいけど人間の、生きものの、体温や粘膜やいのちが怖いのでぬいぐるみと抱き合いたい。ぬいぐるみと睦み合いたい。きっとこれも傲慢で独りよがりな願望なんだろうと思う。


春の嵐が来る。


【2022年2月22日追記】自分の中でまだ考えがまとまっていないので言及すべきではなかったなと思った内容の部分を削除しました。

眠れない夜の記録――アラサーの憂鬱なんて今すぐ世界から消えろ

本当に眠れない夜というのは自分が「眠れない」ことにすら気付けなくて、スマホにかじりついていたらいつの間にか時間が溶けて深夜1時とか2時とかだった。
明日絶対朝寝坊確定だな。まぁ明日は日曜日だし、別に問題はない。月曜に起きれないのは問題なので今日で睡眠リズムを無理矢理整えるぞ。


アラサーの憂鬱とかいう風潮なんて一刻も早くこの世から消えてくれと十代の頃からずっと思ってた。「別にしたくないけどなんとなく恋愛して結婚しなきゃいけないような気がする」焦りなんて意味が分からない。それらを馬鹿馬鹿しいと一蹴していた。
けれどいざ二十代後半に突入してみたら、単純にはね除けられるものではないと知った。ビックリするほど圧を感じる。外圧外圧に次ぐ外圧。
私の場合は「なんか結婚しなきゃいけない気がする」みたいな焦燥感が一切ない代わりに、「これから先の人生、仕事と金をどうしよう」という課題にぶち当たっている。
仕事と金稼ぎ、あまりにも将来性が不透明なまま今の船に乗ってしまって、これで正解なのかとつい悩んでしまうけれど、乗ってしまったからには漕ぎ出すしかなくて、そもそも私はもうこの船に乗るしか人生の突破口がないという非常にどん詰まり状態だったのだから、こうするしかなかった。あとはやるだけやるしかない。
体調管理できなさすぎて前職を辞めたので、体調だけは気を付けたい。こんな夜中にブログ書きながら言うことではない。
アラサーの憂鬱の正体って、二十代前半までに取りかかれなかった(他に優先すべき課題があった等で後回しになっていた)自分の人生の課題が「若くなくなったらどうするの?今よりもっと立場悪くなるよ?」という社会からの脅しで一気に噴出してるんだと思う。
三十歳を過ぎた周りの人は「過ぎてみると大したことなかった」「意外と何とかなった」と口を揃えて言うけれど、意外と何とかならなかった未来の可能性が目の前にそびえ立つ状態で安心しろっていうのもなかなか難しい話だ。


私は若者ではあるが、同時にもういい大人でもあるので、比較的好きだった人から「こんなのまるで『レズ』じゃんww」といったニュアンスの内容で蔑称を使った女性同性愛への揶揄が放言されてショックを受けても、一晩ふて寝したら次の日には傷口はかさぶたになる程度には世の中に慣れた。
でも十代の頃にこれを食らっていたら一生引きずってただろうなと思うと、今を生きるLGBTQユースの人たちの存在がどうしても頭によぎる。今大人でいる者たちには、今子どもや若者でいる人たちを守る責任がある。
今は最近受けた差別には「あぁ、この人もか」とガッカリする程度で済む私だって、思春期に受けた差別は今もしっかり傷口残ってるし超絶根に持ってる。今と未来を生きる子ども・若者を守れる大人になれているんでしょうか。通学電車でいじめらしき場面に遭遇したら声をかけてあとから学校に通報するぐらいは何とかできるししてるけど、果たしてそれで足りているのでしょうか。


鍵垢で現実のセックスの話をしてたら相互フォロワーが表垢ごと減った。私の肉体は現実に生きていて、私の肉体はなかったことにならない。それだけなのに。ままならない。

効かない弱々の眠剤を規定量+1錠飲んだ。危ないので本当はしない方がいいです。真似しないでください。明日、朝起きたくないなぁ。




起きたら消すかも。これもブログっぽいよね。

魂のダイヤモンドを研磨せよ――imaginary創刊号感想

者達!!!imaginary創刊号を読みましたか!?!?
私は読んだので感想を書きます。本稿に直接的なネタバレはないので、既に読んだ人やこれから読む人だけでなく楽しそうなオタクがワーワー騒いでる文章が読みたい人もぜひ気軽に読んでね。


※100%感想なので、内容を要約して紹介したりはしません。気になる人は本誌を読みましょう。

「imaginary VOL.01」
https://twitter.com/imaginary_tokyo/status/1468423992680009733?t=09_srsFt4KUIokBMHzfLKw&s=19

公式サイト
https://www.imaginary.tokyo/

版元直売通販ページ
https://yumemibooks.thebase.in/items/56358958




「ギリ分かりそう」な情報がこれでもかと言うほどギッシリ詰まっている。今はまだギリ手が届かないけど、きっともうすぐ手が届くはず――そして手が届いた時、きっと私の人生を助けてくれるだろうという確信のある言葉たちがダイヤモンドのような密度でB4の紙媒体に閉じ込められている。
読んですぐに全てを理解はできないが、それが気持ちいい。目にして一瞬で「分かる」なんて共感された気になられていいねで消費されるのは、それこそバズり貧乏だ。前提となる文脈が多く必要で難しくて複雑な話はバズらないけど、その複雑さを少しでも理解しようと自分なりに調べて自分なりに考える過程は、SNSをダラダラ眺めるより圧倒的に豊かな体験である。本来読書ってそういうものでしょ?とスマホに毒された現代人に思い出させるドデカい紙面の力。

読めば読むほど、私の魂のダイヤモンドが研磨されていくのが感じられる。
今まで確かに目の前にあったのには気付いていたけどハッキリと輪郭を持って認識出来なかった事柄が、こうして雑誌で文字数を割いて丁寧に言葉になって論じられることで、初めて実像が掴めた。

私の魂のダイヤモンドが研磨されていく。同時に、自分に足りないもの、欲しているものがだんだん浮かび上がってくる。
自分の取っていたファッション生存戦略に「パフェライク」という名前がつけられたことにより、自分以外にもこの生存戦略に舵を切っている人がたくさんいると知った。でも誌面のパフェライクな人々を見て、私にはまだ足りないものがあると痛感した。気に入ったパーツを寄せ集めてパフェを作るように服を着ている。けれど私は、パーツひとつひとつに対する動機や文脈が薄すぎるのだと気付かされた。もはやセカンドストリートをウロウロ徘徊している場合ではないのではないか?ひとつひとつに対する動機が弱ければそれはパフェではなく単なるガラクタの箱詰めだ。
分からない、普遍的なパーツを寄せ集めることがダメなのではなく、どう寄せ集めるか。どう組み合わせるか。普遍的なパーツに何を見出だすか。どういう地層を作りたいのかがぼんやりとしているから私は私のパフェに満足いかないのだろうか。分からないけどこれだけは分かる、漫然と服を着ている場合ではない。

私にはまだ実力が足りない。修行中の人だ。修行中の身で服を着ている。私には多分、運命の服を探すのではなく自分の中にある動機を見極めてしっかり掴むことが必要だ。自分だけの方舟でどこに向かって進みたいのか見極めなければならない。えっ、これってファッションっていうか人生の話じゃん。でも人生の話なんだよな。ファッションを論じるという形で人生の新たな視座を提示している雑誌だから。

自分に足りないものを鋭く突きつけられるのは気持ちいい。安易な共感や慰めでは埋まらない隙間が存在する。その隙間を埋めるのは、彼我の差異だと私は思っている。ダイヤモンドを磨き上げるように、自分の実力不足で空いた隙間はドデカいキラキラをぶち込んで満たして昇華したい。もっともっと、硬く鋭く輝きたい。

imaginary読者の方を「ダイヤモンズ」と呼ぼうか、という話がダブル編集長であるゆっきゅんと水野しずさんお二人のポッドキャストで語られていた。
https://open.spotify.com/episode/6DIXey9ZSTqdqQAbzgpENh?si=RvKCMeXAQ8at9wB-sNBqsw&utm_source=copy-link

そうか、私はダイヤモンドだったのか……
これからもダイヤモンドとして、自分だけの人生をやりに行かせていただきます。

もっともっと、何度も読みます。この雑誌が存在してよかった。ありがとうimaginary。

2021年12月の生活についてとりとめなく綴る

12月も既に10日経過したらしい。今日は肩の力を抜いて、とりとめなく日常的な日記を書いてみたい。



12月から再就職をした。就職と言ってもいわゆる一般的な会社員ではなく、説明が難しいし詳しくも言えないのだが、ほぼ身内しかいない状態で立ち上がった事業の端っこの方に置いてもらえて、最終的には自立して金が稼げるようにここで修行させていただく身だ。やる気のある若者です。
色々特殊な環境なので、髪を緑色にしたり管理者の許諾を得た上でimaginary創刊号を置かせてもらったり、やりたい放題やりに行かせていただいています。その分きっちりお仕事頑張るぞい!


まぁ、新しい環境に飛び込めば色々な出来事が起き色々なストレスが溜まる。よくあることだろう。最近の私のストレスコーピングをご紹介する。

・やってられねー!って気分の時は、酒の代わりに三杯酢もずくを飲む。
・納豆を食べる。
・買い物を済ませるついでに少し散歩する。
・古着屋をフラフラ彷徨う。
・あたたかい抹茶オレを飲む。
・欲しかった本を買う(すぐに読まなくてもOK)
・読書。
・部屋の片付け。
・休日のお布団で眠ったりダラダラしたり。
・部屋を暗くして布団にくるまって音楽を聞く。

あと、部屋の室温はあたたかくしよう。何度でも言うけど冬はあたたかくしよう。











最近思い悩んでいることをチラ見せすると、「本当はもっと自分の考えていることや生活で実践していることについて深掘りした文章を書きたいが、真剣に文意を読む気もなければ自分の言葉で語る気もない人間から、魂込めた文章を好き勝手に消費されたり曲解されたりタダ乗りされたり踏み台にされたりするのが嫌すぎるので、もういっそ有料の電子ZINEでも作ろうかな」です。

聴く者を限定しない名曲「好きかも思念体」の解釈で勝つ

ゆっきゅんが先行配信リリースした曲「好きかも思念体」を聞いて欲しい。とにかく聞いて欲しい。
https://linkco.re/ZSEntSGQ

https://twitter.com/guilty_kyun/status/1461715099475873793?t=_60LN-fGxsIxetNG_oIksA&s=19

良い曲すぎて感想が無限に湧いてくるので、既にツイートした内容のまとめも兼ねて書き記しておく。



まず、自ら作詞したゆっきゅんが「ヘテロに限定しない歌」とTwitterで明言してくれた(※1)ので、私の解釈では女と女のラブの歌です。

それ以外にもあらゆる受け取り方が出来る構造になってるのがこの曲のすごいところなんですけど、ヘテロに限定しないどころか恋愛にすら限定しないその他パターンの解釈は後述するとして、まずは私の中の「好きかも思念体」の物語を聞いてくれ。


君が私にラメを爪に塗り塗りしてくれてる手元が何故かまぶしいのか恥ずかしいのか直視できなくて、足元に視線落としたら君の履いているブーツかわいい……って気付いて、好きかもしれない!になる情景が見える歌詞。一瞬一瞬が部分的に切り取られがちな歌詞という表現領域において、時間や出来事の流れを鮮やかに表すセンスと手腕、端的に天才……

そして二番で帰宅して、好きかもしれない君に塗って貰ったネイルが来週だって剥がれたくないから、自分でトップコート重ねるのもまた良い。
『え?勘違いなわけないじゃん!』も、周りに「あの子のこと好きかもしれない……」ってポロッと話したら「友情を恋愛と勘違いしてるんじゃないの?」って言われたんだろうなって想像がつく。同性を好きになる時あるある。でもついつい人に話したくなっちゃうのもあるある。
『来年なんてありえないの? 君の自由さ 私も自由さ やれやれ寒暖差』は、卒論ラストスパートの秋から冬の寒暖差にメンタルが弱って、卒業したら来年もこうして君と会えるかも分からない、けど卒業後にどう生きるかは君の自由だし、私にも私の自由があるし、終わりのない思考は寒暖差のせいだよやれやれ……という情景が見える。一人暮らしの自宅で電気をつけずにぼんやりぐるぐる考えてそう。

一番サビがすごく好きなんですよ。『好きかもしれない! はじめて なんか楽になれそう』は『パフェにする?えーやっぱ恋にする?』『主体的ィ♡無理ィ♡』に繋がってて、今までの異性愛規範に乗せられて選ばれるまま頷いた恋愛ではなく、私が初めて自分の意思で「好きかもしれない」ってファミレスでパフェを選べるように主体的に選べた相手が君だからだと解釈してます。『無理ィ♡』は感嘆詞だと思ってる。感極まりすぎて無理って言いがちなの分かる。
セクシュアリティに初めて気付いて受容すると精神的に楽になるし、自分を責めなくてよくなるから恋するのが楽しいよね。

以上が、一部ではあるが私が「好きかも思念体」に見出だした物語である。この歌、私のこと歌ってる……って感じられる歌が生まれたのってすごく幸せだよね。



「好きかも思念体」には他にも色々なギミックが――というか限られた文字数から想像を膨らませられる余白――が仕掛けられていて、冒頭の『床片付けて出てきた三千円 君と使いたい』のあとに『決めた!ファミレスで相席勉強 そんなん進むわけないね』と続くのは、ファミレスでコーヒーとパフェ二人分頼んだらちょうど三千円ぐらいになるよね、とか。そもそもバイトが嫌になって金髪にしてみたり片付いてない床からお金が掘り出されたりと曲中の私はあんまりキッチリとした生き方が向いてなさそうだな、とか。君とファミレスで勉強会したって喋りまくって進むわけがないと分かっていても君と過ごしたいから卒論が切羽詰まってるのに勉強会という名目のお茶に行くのってマジで好きなんだな~~、とか。



ここからは別の視点で「好きかも思念体」の歌詞に切り込みを入れてみたい。

タイトルで「好きかも」と言ってるものの、前述したようにこの曲は恋愛ソングとしてではない読み方も全然出来るのだ。
ありがたいことに私の感想ツイートを見て「好きかも思念体」を聞いてくれたフォロワーが複数人いて、その一人が「思ってたより卒論の歌だった」と感想を教えてくれた。

そう、これはめちゃくちゃ卒論や締め切りに追われる人の歌でもあり、やるべきことがやれてない己のどうしようもなさや切迫感を散々嘆いて聴き手の気持ちに寄り添いつつも、最後は『結局絶対提出できる』と鼓舞する歌でもある。

そして歌詞に出てくる君への感情が恋愛であるとも限定されておらず、「卒論やばいのに友達とファミレスでパフェ食べながら勉強そっちのけで恋バナ聞いたりお喋りしまくるの楽しすぎる~♡てか君って締め切りチキンレースしてる私より全然頑張ってるからもっと楽にさせてあげたい、リフレッシュで突然熱海とか行きたくね??」という親密な友情関係を描いてるとも読み取れる。だって「好きかもしれない」だから。恋とは断言してない。ズバリ言わないわよ状態。


また、歌手であるゆっきゅんという人物を以前から好きで追いかけている聴き手がフフッと微笑んでしまうようなゆっきゅん節も所々に散りばめられていて、そこもまた嬉しい。『教えて「このドラマに出てきそう」あれ いい意味で言ってたの?』を聞いた時、私は「あえてゆっきゅん読みをするなら「このドラマ」は「アフリカの夜」しかないな……」とピンと来た(柚木麻子さんゲスト回のバラ色会議(毎月開催されているゆっきゅんソロの有料配信トークイベント)を見てる人しか分からない局地的なネタ)。
ふと思い立って突然熱海に行くのも実際のゆっきゅんのエピソードだし、そもそも去年修士論文の執筆でギリギリのギリギリまでかなりの切迫感を醸し出していて、結局提出できたゆっきゅんが歌うからこその説得力もある。



本当に無限に語れそうだけど最後に。
「好きかも思念体」では『心と頭 区別しなくていーじゃん』という、ものすごく大事なことを歌っていて、「好きかもしれない」って曖昧に揺れる心と卒論執筆に終われて慌ただしく思考を巡らせる頭、両方同時に起こることもあるんだよという人生あるあるが「好きかも思念体」という曲名に繋がっていると思ってる。


これが私の解釈だ!!

これからも聴き込んでいきたいので、ここまで読んでくれた読者の方はぜひゆっきゅんの歌う「好きかも思念体」を聞いてみたり買ってみたり拡散してみたりして欲しい。

https://linkco.re/ZSEntSGQ






※1 ゆっきゅん本人の公式Twitterより
https://twitter.com/guilty_kyun/status/1461859261651120130?t=zn9l-hWq8pdYcMHJ-VoyBQ&s=19

https://twitter.com/guilty_kyun/status/1461862398000730116?t=N1EDpP3nmAyZWMCslwdIwQ&s=19

冬が来てしまった

近況日記です。

先週末ぐらいからグッと気温が下がって、私の中では「冬が来た」ということになった。気温の変化、気候の変化、気圧の変動、世間の空気の変化。これは確実に冬が来たのだと身体が悲鳴を上げている。

冬が来てからというものの私はメンタルの調子を著しく崩しており、変にハイになってTwitterのスペースで訳が分からないまま喋り続けたり、急にうつ状態が強くなって一人の部屋で奇声を上げてジタバタしたり泣き出したり、頭が全然回らなくて一日中ソシャゲを触ったりしていた。


数ヵ月前、秋が来た頃にメンタルヘルスのセルフケアについてブログを書いた。
https://jewel-m-pride.hatenablog.com/entry/2021/09/11/133348

偉そうに色々書いたにも関わらず、今はつらすぎ~~!!!になっている。その記事で書いたことは実行しているものの、効果は「大崩落悪化を防ぐ」までで、別に元気にはならない。無理なものは無理。そして無理なものは無理なのだから抗おうとしなくていい。抗うともっとつらくなる。

なんも出来んみたいなwinter……だけど、なんかは出来てる実際……(DIVA ME替え歌)、と唱えてしのいでやり過ごすしかない。



成し遂げたいことが絶対にあるのに、強い気持ちは確かにあるのに、それがいつまでたっても具体的な形の結果にならなくて、野心はあるのにその野心に込められた自分の切羽詰まった欲望や暴れる魂の核心が掴めなくて、上手く言葉にならなくてもどかしい。

焦る。何も形にならないまま時間が過ぎていくことに焦る。