君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

水のまま生きたい――説明して納得してもらうためではない、流動的な自分を受け入れるための自分だけの言葉

「確固たる自我」がないことに、割と長らく思い悩んでいた。

子どもの頃から今現在まで一貫したアイデンティティなど何一つない。私は流動的で、ずっと同じ状態ではいられなくて、そんな自分がいつまで経っても未成熟に感じて心許なかった。
自己が水のように流れていく。ああなりたい、こうなりたいと四方八方に目を向けては、はみ出る、揺らぐ、拡散していく。一つの型の中に収まれない。
いつになったら私は完成するのだろう?
いつになったら液状ではなく固形物になれるのだろう?


そんな悩みの最中、近年の田島ハルコさんの活動を知って「こんな表現をしている人がいるのか」と、すごく驚いた。

田島ハルコ/ECCENTRIC青年BOY(MV)
https://youtu.be/VcGG1xS35_U

アーティスト・田島ハルコ、その流動的な魂の表現――“わかりやすさ”に抗い“カオス”を曝け出すこと
https://tokion.jp/2021/05/27/haruko-tajima-fluid-emanation-of-soul/

性別わからん宣言♪|田島ハルコ
https://note.com/dokusya_model/n/nd728990750c7

液状の自我を無理矢理固形にする必要って、実はないんだ……という衝撃が大きかった。流動的なままで、揺らぎ続けるままで『自分』として生きていけるのだと、ここまでハッキリ体現している人に初めて出会ったかもしれない。
そして、ジェンダーアイデンティティを含めた流動的で常に移り変わりゆく自我を、他者に説明して納得してもらうため『ではない』、自分の言葉や装いで表現しているところにもまた驚いた。

「福音と世界2021年10月号(特集=身体(からだ)再考) 」
https://shinkyopublishingco.stores.jp/items/6131b114a102752cf956e812
に寄稿された文章も、あえてコンテクストを説明しない、分かる人だけか分かるように書かれたある種の暗号的な雰囲気が散りばめられていた。
私はつい最近田島ハルコさんを知ったばかりの者なので、正直なところこの文章は初見ではピンと来ない部分も多かったのだが、「分かりたい」「分かりそう」という気持ちは強かったので、田島ハルコさんの過去の作品を遡ったり検索して出てくる記事を漁ったりしてから何度も読み返している。最初よりは少し文章の中に散りばめられたものが掴めてきた、気がする。

こうやって『「分かる」もしくは「分かりそう」「分かりたい」と思った人だけが残る仕掛け』の文章を読んで、何もかもを全員に分かりやすく説明する必要はないし、ましてや全員に納得してもらう必要もないんだなぁと思った。

私はありがたいことに「言語化が得意」と人に褒めていただけることが多い(恐縮……)(照……)。
それが常に脈絡のない理不尽の頻発する環境で生き延びるために、己の身に起きた訳の分からない出来事を多くの人が理解できる言葉にして伝えることを迫られたゆえの副次的な能力だとしても、「目に見えない抽象的なものを言葉にして伝える」という技術は今も生きていく上でだいぶ私を助けてくれている。

しかし――しかし最近は、他者に納得してもらうための『説明』をすることにどんどんうんざりしている。
分かりやすい説明を他者に要求する前に自分で調べて自分で考えてくれよ。私は誰も説明してくれなかったから自分で調べて自分で考えて自分で言葉を編むしかなくて、こんな偏執説明マニア状態になったんだぞ。という恨みがましさと、他者に説明するための、大勢に納得されやすい定型文に閉じ込められている。という閉塞感。
特にジェンダーアイデンティティについては、常に正しい言葉で分かりやすく説明しなければならないような圧を世のそこかしこから感じている。
もちろん「正しい言葉で分かりやすく説明する」ことが求められる場面も、残念なことにまだまだたくさんある。成し遂げたい目的によっては、正しさや分かりやすさは戦略的にも倫理的にも必要だろう。

けど、私はもう自分のジェンダーアイデンティティを説明したくないし、説明するための文章は書きたくない。
今の私には、説明して納得してもらうため『ではない』言葉が必要だ。誰かに認められるためではない、自分で自分を受け入れるための言葉が。

だから田島ハルコさんが、現在のご自身をTwitterのbioで「姫に生まれしKING」と表しているのを見て、「そういう表現もあるのか!」と感動した。
「男or女orその他」から選ばされるのではない、誰かに説明するためではない、自由記入の自分だけの表現。そうか、そうやって表現してもいいんだ。KINGか……え~~メチャかっこいいじゃん。こういうのこういうの、こういうのを私も見つけたい。


ところで、2021年10月20日にKINGである田島ハルコさんとコラボするDIVA、ゆっきゅんをご存じだろうか。
【追記】
「KING DIVA」配信開始!!
https://linkco.re/MvCYEQ2b

【さらに追記】
田島ハルコ - KING DIVA feat.ゆっきゅん(MV)
https://youtu.be/x5RsWRm7n9k

ゆっきゅんは電影と少年CQというユニットでアイドルをしていたり、セルフプロデュースでDIVA Projectというソロ活動をしていたり、歌ったり踊ったりする他にも文章を書いたりトークイベントで喋ったり雑誌を創刊して編集長をしたり、とにかく色々な面白いことをたくさんやっている人です。

ゆっきゅんの詳細について興味のある方は各々ご自分で調べてもらうとして、ここからは2021年10月15日にwezzyにて行われた、ゆっきゅんと文筆家の牧村朝子さんによるオンライン対談イベント「てか戦ってると思われたくなさすぎる」の話に少し触れたい。

牧村朝子×ゆっきゅんオンライン対談「てか戦ってると思われたくなさすぎる」チケット発売開始!
https://wezz-y.com/archives/93528
(※イベントは既に終了していますが、後日アーカイブ販売予定らしいです。)

途中休憩も挟んで約二時間。あらかじめ『正解』を用意することはしない牧村さんとゆっきゅんの対談は、コメントで参加する視聴者たちとともに丁寧に積み重ねられ、まだ知らなかったゆっきゅんの一面も知れて新鮮で面白かった。
終盤、牧村さんがゆっきゅんのことを「ゆっきゅんは水なんだね」と形容した。常に動いていて、川のように一方向でなく、広がるように流れ続ける。一ヶ所に留まらないから掴めない。色んな方向に広がって色んなものに触れている。だからさみしくない。

その例えを聞いて、私がゆっきゅんを好きな理由の一つに改めて触れることが出来た。
私は本当は水なのに、頑張ってゼリーになろうとしているからこんなに苦しいのかもしれない。だから、水のままで生きているゆっきゅんにこんなに魅力を感じるのかもしれない。

また、ここでも「定型文で喋らされたくない」という話が出てきた。
ゆっきゅんも牧村朝子さんも、定型文で分かりやすく説明させられるのを拒んで、自分の言葉で表現をする人だ。
ゼリーの金型に収まればたくさんの商品の中に加われるけれど、自由な水のままで広がり流れ続けて、外側から貼られる値札(カテゴリ)を拒絶する人。そんな人に私は心惹かれて止まない。

流動的であることは未成熟な証ではない。変化し続ける自己は柔軟とも言える。「確固たる自我」は最終的な結果でしかなく、生きていく上で早めに手に入れなければいけないものではない。

私は、水のまま生きてもいいのかもしれない。



※本稿は筆者の個人的な悩みとそれを解きほぐす過程で出会った表現者たちに焦点を当てたが、インターネットの爆発的な普及により、過剰な一貫性を自他に求めるようになった結果として「確固たる自我」を探して血眼で彷徨う人が大量に増えたという側面も無視できない。私は何故、ゼリーにならなければいけないと思い詰めて自分が入れる金型を探し続けていたのか。誰に、何に「自分探しをさせられていた」のか。「あなたらしい個性を生かす、オリジナルの金型がありますよ!」と謳って金儲けするのは誰なのか。そこも気が向いたらまた書きたい。もしくは詳しい人に書いて欲しい。