君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

自分の身体を諦めざるを得ない人たちはどこへ行く?

 

 私は私の身体を諦めても、私の性別を諦めたくない。

 

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【※注意※】

 この記事は、私というノンバイナリーなトランスジェンダーの一個人が、様々な事情により性別移行が上手くいかずに、違和感を抱えたままの自分の身体を諦めて、それでも生きていく方法を自分なりに探っていくための、またはそれらに似た境遇の当事者の灯火となるための文章です。

 ホルモン療法や外科手術など、トランスジェンダーの身体への医療的アプローチ、トランスジェンダー当事者の身体の自己決定権、ひいてはトランスジェンダーの存在そのものを否定するための材料を探しにやってきたトランス差別者たちは、今すぐここから立ち去ってください。

 女性/男性を勝手に定義付けてそこから外れた者に対して執拗なミスジェンダリングを繰り返したり、今現在それぞれの生活実態に合わせてトラブルが起こらないよう安全に慎重に公共空間を使っているトランスたちを公共空間から排除して危険に晒す言説に、私は強く反対しています。

 

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①出生時に割り当てられた性別に押し込められ続ける絶望

②トランス医療には繋がれない、望む身体は諦めなければならない

③身体は諦めても性別は諦めたくない

④生きるヒントを求めて触れた情報の先に

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 性別移行が思うように進められない日々を過ごしている。私が職場でオープンなクィアとして生きているのは、埋没が出来ないからでもある。私は男でも女でもありませんよとしつこく言い続けなければ、しつこく言い続けていても、私はずっと出生時に割り当てられた性別に押し込まれ続けている。男性でも女性でもない性別にとっての『埋没』はない。

 職場で最初に導入された全員通称名制度はいつの間にかなかったことになっていて、私は今日もデッドネーミングされている。ほぼ全員にカミングアウトをしたところで望まない代名詞を使われている。理解があるよという顔をした人から「でも知らない人から見たら【出生時割り当ての性別】にしか見えないよね」とか平然と言われる。

 身体の形状や体内のホルモン、二元的ジェンダー規範に適合した見た目や振る舞いがその人の性別を決める訳ではない。けれど現実には、それらのシスジェンダーが作った不合理なシステムにある程度寄せていかなければ(あるいは寄せたところで)、自分の性別は周りに通用しないとほとんどのトランスジェンダーたちは知っているだろう。本来の自分の性別と社会から扱われる自分の性別の乖離で、引き裂かれそうな痛みを経験していることは当事者によって散々語られている。

 

 

 お金とか、頑丈で健康な心身とか、診断書が貰えそうな確固たるバイナリ―なジェンダーアイデンティティーとか、色んなものが足りていなくて、トランス医療に繋がれない状況だ。私の身体には、無知な周囲を納得させて通用させるだけの『説得力』はない。もしかしたら5年後、10年後は私も社会も違う状況かもしれない。不確かな未来の可能性だけが希望で、でもそんな淡い希望は、通帳の残高と給与明細を見るとすぐに消えてしまいそうになる。

 私は弱い。テストステロン投与の急激な心身の変化に耐えられないであろうどころか、胸を潰す下着をパートタイムで着けることすら難しく、肺が圧迫されて息が苦しくなり心身の調子を崩して職場でパニックを起こしてしまうほど弱い。もちろん、胸オペの費用が稼げたり援助を受けたりできるほどの経済的な強さもない。ミスジェンダリングはどこに行っても当たり前。そんな日常生活で、どうやって自分の身体を諦めないでいられるなんて信じ抜けるのだろう。

 これを読んでいるあなたが想定しているだろうよりも、私は身体への医療的アプローチを何度も何度も真剣に考えた。もしもホルモン投与したら、体臭が変化するだろう、声変わりが来たら嬉しいな、髭が生えたら剃りたい。胸オペが出来たのなら、あの服を着て、堂々と外を歩きたい。部屋の中で服を脱げるようになりたい。

 でも、でも、私は色んな意味で弱かった。ホルモン療法は魔法ではない。私は様々なリスクを加味した上で、これは自分には無理だと判断した。あなたや他のトランスジェンダーたちがホルモン療法を選ぶことを私は決して否定しないし、この文章をホルモン療法やトランス医療、トランスジェンダーの身体の自己決定権、トランスジェンダーの存在そのものを否定する材料にされることは断固として拒否する。

 でも、私には選べなかった。誰よりも自分の身体と付き合ってきた自分が、無理だと判断したのだ。

 「誰だって自分の性別を諦めずに生きる権利がある」

 私は私以外の人間に「自分の身体を諦めろ」と迫ったりはしない。

 けど、他人が簡単に「自分の身体を諦めないで」なんて言わないで。あなたの身体と私の身体は違う。あなたにはできたことが、私にはできないんだ。



 私は自分の身体を今よりも違和感のない状態にすることは諦めている。けれど、自分の性別を諦める気はない。

 

 「誰だって自分の性別を諦めずに生きる権利がある」というのは、痛いほど理想的な正論だ。間違っていない。正しい。そうあるべきだ。だけど「本来そうあるべきだ」と「現在そうである」は違う。今の私の生活実態は、あるべき理想とはかけ離れている。

 私は自分の性別違和を自覚してから現在までずっと、性別移行がままならない。有り体に言えば『パス度が低い』。より正確に言えば、男女二元論が強固に支配する現状では「ノンバイナリ―にとっての『パス』」が存在していないという事実を差し引いても、今の私は出生時に割り当てられた性別としてしか扱われない。どれだけカミングアウトをしても、どれだけ見た目から二元的な性別の記号を曖昧にするための努力をしようと、私が男性でも女性でもないことはほぼ常に忘れられる。

 ジェンダーフルイドで、日によって時期によって性表現の差が大きいことが、ミスジェンダリングの最大の要因ではないかと推察している。それでもノンバイナリージェンダーの私にとっては、男性として生活することと自身の違和が和らぐことはイコールではなくて、自身の違和が和らぐことを優先している。そんな性表現の揺らぎを抱えて、身体は「【出生時に割り当てられた性別】にしか見えない」とか言われる状態。結果として本来の性別としての扱いはどんどん遠くなる。

 

 そもそも性別移行とは「社会から扱われる性別を自分本来の性別に近付けていく作業」であり、その目的を達成するために身体に医療的アプローチをすることが大きく含まれているのは事実だが、唯一の手段ではない。そんなこととっくの昔に知っていたはずだった。だけど実際に私がこの身体でずっと生きてきて、性別移行と身体への医療的なアプローチが必ずしもセットではないことが、我が身に置き換えて考えられなかった。

 トランス女性もトランス男性もノンバイナリーも、身体に医療的なアプローチをしてもしなくても、本人の生活実態に合わせて本来の性別と社会との折り合いを付けながら、たくさんの人たちに紛れてそれぞれ生きている。

 それでも、私がこの身体でいる限り、社会は私を【出生時に割り当てられた性別】として扱うという経験を嫌というほど積み重ねてきたから、「性別移行と身体への医療的なアプローチが必ずしもセットではない」とは、現在実際に通用するかは別の話だと知っている。

 

 性別移行が思うように進まない人たち。

 自分の身体を諦めざるを得ない人たち。

 身体への医療的アプローチを求めているのに、トランスジェンダーである以外の様々な事情で叶えることが難しい人たち。

 違和感と苦痛を抱えたまま、それでも生きていかねばならない人たち。

 「勇気を出して努力して身体を変えて、自分らしく生きられるようになってハッピーエンド」の典型的な物語では掬い上げられない人たち。

 苦痛に満ちた身体への違和を抱えたまま、生まれ持った身体で一生を生きざるを得ない人たちは、どうやって生きればいい?

 どうやったら、私は生きていけるのか?

 

 自分以外のクィアの存在に触れるのに、文章と映画はかなり有効だ。私は普段そんなにたくさん文章や映画に触れてはいないのだが、本当に追い詰められると、情報を求めて探し漁って手当たり次第に触れる。

 以下に、最近読んだ文章を挙げていく。

 

 『現代思想 特集=ルッキズムを考える』古怒田望人/いりやさんの「ままならない交差点:ジェンダークィアのボクが生きてきたこの身体について」

 まず、「見せる/眼差される」身体の種類を変えることは、前述したようないわゆるトランス医療によって身体を変えるだけが手段ではないのだなと強く感じさせられた。服の下を変えるのではなく、装いによって身体を拡張する方法はある。それが私はなかなか上手く実践できていない。二元的なジェンダーから外れようとしても外れようとしても押し戻される。

 だから、装いによって自身の身体へ求められる眼差しをずらす生き方を私より上手く実践している人がいて、その実践が成立しているからこその様々な眼差しから逃れられない痛みや葛藤が、また時として自身の感覚と親和的な体験があることを知れて、私の心は幾分か整理がついた。ジェンダークィアという生き方がある。その姿は、その筆致は、私の中に未来を残した。

 

 『文藝2022秋』高井ゆと里さんの「舌は真ん中から裂ける」

 以前もブログで言及したほど大切な文章だ。男性でも女性でもない人間には、自分にとっての「私」と他人にとっての「私」を結びつけて同一性を与える言葉がない。「この世界には男性か女性のどちらかしかいない」という不条理なシステムから「私」の言葉を奪われている。「私」の、「私たち」の言葉を取り戻すための切実さが、伝わる人に伝わるように描かれた文体で訴えられている。

 私の舌には穴が空いている。私は舌を半分に引き裂けないまま、舌に穴が空いたまま生きていかなければいけない。作中には

幸いにも、私には身体を切り裂いて生きるための蓄えも、体力も、そして運もあった。

との一節がある。この文章は、舌を半分に引き裂けた人たちだけに向けられているのではなく、舌に穴が空いたままの人たち、舌に痛みを感じ始めた人たちにも開かれている。私はそれにすごく安心する。

 

 山内尚さんの「クイーン舶来雑貨店のおやつ」(こちらはフィクションの漫画作品)

 優しくあたたかい小さな世界に包まれながらも、クィアであることによる住居や就労についての問題や、第三者から不躾に性別を判断され続ける日々の痛み、ジェンダーにまつわる苦しみにほとんどのリソースが割かれてしまい他の大事なことがままならなくなる、総じて

生きてるだけでヒリヒリする

という厳しい現実にも触れていた。

 主人公であるノンバイナリ―のジャックが、一話では人前で一人称を使わない話し方をしていた描写が細やかですごいなと印象的だった。個人的には、ジャックのクローゼットがすぐに引っ越せないほどたくさんの服で占められているところと、人前に出る時は誰かに何か言われないよう意識して服装を変えているところがジェンダーフルイドとして共感した。

 

 あと、緊急避難的引っ越しにより現在手元にない

 『シモーヌVOL.5 』の高井ゆと里さん「時計の針を抜く:トランスジェンダーが閉じ込めた時間」

 を悩み苦しんでいる今だからこそ読みたくて買い直した。元はゆと里さんのご厚意で献本していただいたものだったので、今回きちんと版元に還元できてよかったです。

 

 また、ノンバイナリ―・ジェンダークィアではなくトランス男性の枠組みだが

 トーマス・ページ・マクビーさん著(小林玲子さん訳)の「トランスジェンダーの私がボクサーになるまで」

は一年前に初めて読んで衝撃を受けた。それから何度も何度もたくさんマーカーを引いて、つらくなるたびに読んでいる。この本は、私の中の「(自分がなりたかった・過度に理想化された)あこがれの男性像」という幻想を完膚なきまでにぶっ壊してくれた。それは私にとって今も大きな活路となっている。

 周司あきらさんの「トランス男性によるトランスジェンダー男性学

は、今読んでいる最中だ。読みながら、やはり私は男性というジェンダーアイデンティティーではないこととは別に、男性としての生活を望んでいる訳でもないなと再確認した。私は女性ばかりの住居で生活していた経験も男性ばかりの住居で生活していた経験もあるが、どちらにいても自分は異物だと感じていた。男性として生活することが自分にとって違和や苦痛を和らげて「しっくりくる」訳ではないことを既に察しているので、なかなか大きく「男性的なジェンダー表現」へ振りきれないのかもしれない。

 私の中で、「女性ではない」ジェンダーアイデンティティーが確実にあることと、二十年以上「女性」として扱われて積み重ねた人生経験の乖離で、大きな混乱が生じていることに初めて気付いた。そういう面でも、私はシスジェンダーではないのだろう。

 

 本を読むことは他者を知ることで、世界を知ることで、自分を知ることにも繋がる。書かれている全てにしっくり来なかったとしても、ずっと私の血肉となり続けてくれるであろうたった一文に出会えるだけでも意味はあるのだ。



 8月19日~22日はオンラインでトランスジェンダー映画祭2022夏

https://transfilmsummer2022.peatix.com/

もあるし、

 9月には(行けるか分からないけど)第15回関西クィア映画祭2022

https://kansai-qff.org/2022/

もある。今回の関西クィア映画祭のミニ特集はなんと、ノンバイナリーだ!

 

 自分以外のクィアな存在に触れて孤立感を和らげたり、人生の指針を探すのももちろんだし、映画や文章に没頭する時間というのは気分転換としてかなり強度が高いから、どうにも行き詰まってしまったら一回休憩がてらゆっくり映画を観たり文章を読んだりするのもありだと思う。

 触れた作品を媒介にして、他の当事者と語ってみるのも良いかもしれない。他者との対話は時にどうしようもないほど断絶を感じたりもするが、相容れない体験が「自分はどのような人間である/ありたいか」の輪郭を形作るのに役立ってくれたりもする。私はめげずに話し続けたい。




 苦痛に満ちた身体への違和を抱えたまま、生まれ持った身体で一生を生きざるを得ない人たちはどうやって生きればいい?

 どうやったら、私は生きていけるのか?

 その答えは人によっても違うし、その人がいる世界の状況によっても違う。

 だから多分、常に不動の完璧な答えはどこにもなくて、こうやってそれぞれが語りを残していくしかないのだろう。