君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

SNS乱世において心の秘匿性を保つ

「文章を書こうとする時、人生を切り売りする者より技術を切り売りする者の方が上手くいく」……みたいな言葉を遥か昔、どこかのインターネットで目にした。
検索しても出てこなかった誰の言葉かも分からないその一文が妙に記憶に残っているのは、私が人生を切り売りするような文章を書きがちだからだ。

私が文章を書く時はだいたい「言いたいことが!あるんだよ!」と強い執念に突き動かされており、そこから個人的な感情や体験を取り除くのが非常に難しく、また取り除くべきとも思っていない。
自分で書く以前に、いち読者として読むのも私的な文章が好きだ。ZINEや同人誌が好きなのも、極めて個人的な感情や体験が商業的なフィルターによって濾過されずに、生身の熱を持って綴られているからだ。私には私の人生しか生きられないからこそ、他の人たちがそれぞれの人生をそれぞれに生きている軌跡の一端に心惹かれて止まない。


ところで私はツイートが伸びたりフォロワーが増えたりすると、一人で「心の秘匿性」と繰り返し自分に言い聞かせる。
これは完全にあり得ない独自懸念なのは分かっているのだが、どうにも昔から自他の境界線が曖昧かつ過干渉な環境で育ったせいか、「私が頭の中で考えていることは全てバレている」という不安にうっすらと覆われて生きている。そんなことはあり得ない。しかしこれだけ四六時中SNSに囲まれて、人々があらゆるものを全世界にシェアするのが当たり前の生活をしていると、全てが常に他者の目に晒されていて、内心の自由にまで侵襲されるかのような錯覚にたびたび陥る。

境界線がぼやけて溶けて私以外の何かに内心にまで侵入されそうになった時に、私は心の秘匿性を確保する時間を作るようにしている。
具体的には、SNSに書かないことをする。読んだ本のタイトルや感想を誰にも言わない。YouTubeで観た動画の内容を誰にも教えない。まだ形にならない感情や思考を誰にも伝えない。心の中に、誰も入れないスペースを作る。そうやって、意識的に自他の境界線をはっきりと引き直す。
しばらくして心の中をある程度出してもいいなと思える状態に落ち着いたら、読んだ本の感想なり何なりSNSに書いてもいい。でも別に書かなくてもいい。

大事なのは、誰に何をどこまで伝えたいのかを見極めることだと思っている。


昔、大好きな人から自分の出した同人誌の感想をいただいて、その内容に感動したことがある。今までは「何を伝えたいか」にばかり心を砕いていたが、その方は私が全く自覚していなかった「誰に伝えたいか」をその方なりに読み取って言葉にしてくれた。誇張ではなく世界の見方が広がった。本当に感謝しているし尊敬している。
それからは文章を書いた時、「誰に伝えたいか」を意識して考えてインターネットに載せるか載せないかを判断している。


あなたが書いているその文章は、誰に伝えたいことですか?
それとも誰にも伝えたくないことですか?
もしくは特定の誰かにだけ伝えたいことですか?


SNS乱世において心の秘匿性を保つため、送信ボタンを押す前に、一人きりで自問自答する時間を大事にしたい。誰にも共有しない私だけの孤独は本来とても尊くて、私の心を守ってくれるから。