君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

服を拒む、服に拒まれる。

今回は箸休めに普通の日記を書きます。

 

 

仕事帰りにセカンドストリートに寄った。お金がないけどとにかく服が欲しかった。

現在の私は以前住んでいた家を緊急脱出して、とりあえず借り暮らしの身なので、買い足したもの以外は最低限の荷物しかない。特に服が足りていないと感じていた。大急ぎでキャリーバッグに詰め込めるだけ詰め込んだだけしか服がなくて、そのうち半分ぐらいはジェンダーアイデンティティの揺らぎにより着れない状態だ。着たくない服を毎日着ている。着たくない服の中から少しでもマシな服を選んで外に出る日々は、じわじわと私の精神力を蝕んでいた。

 

今の私は、いわゆる「レディース」と分類される服が着れなくなった。デザインは好きだ。見ていて楽しい。でも、それを自分の身に纏うことがどうしても耐えられなくなってきた。いわゆる「メンズ」と分類される服が着たくて仕方なかった。

 

セカンドストリートに駆け込んで、そこまでゆっくり探して回る時間はなかったけど、出来る限り物色した。メンズファッションの棚にあった黒無地のスウェットを見つけた時、すごく安心した。嬉しかったのでもときめいたのでもなく、安心した。私を拒まない服が見つかったという安堵だった。

数点試着したら、手に取った時はややオーバーサイズに見えたそれらの服はしっかりと私の身体のラインを拾ってしまい、諦めて脱いで棚に戻した。服に拒まれた気分だった。

隣のレディースファッションの棚に陳列された服たちは、もう今の私が着れる服ではなかった。デザインはとても可愛いのに着れない。しっくり来ない。居心地が悪い。私が私ではなくなってしまうから着れない。どんなに素敵でも私の身体の一部にはなってくれない服たちに追いやられてるようで悲しかった。

 

帰ろうとしたところで、偶然視界に入ったアコースティックギターを所持金使い果たして買おうかしばらく悩んだ。あまりにも悲しかったからギターでも弾きたかった。ギター弾いたことないけれども。疲れている時に大きな買い物をするものじゃないなと思い直して、そのまま何も買わずに店を出た。

 

 

帰り道の自動販売機でりんごジュースを買って、帰宅してから飲んだ。今の私に買えるのはりんごジュースぐらいだよ。

 

自分の身体を諦めざるを得ない人たちはどこへ行く?

 

 私は私の身体を諦めても、私の性別を諦めたくない。

 

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【※注意※】

 この記事は、私というノンバイナリーなトランスジェンダーの一個人が、様々な事情により性別移行が上手くいかずに、違和感を抱えたままの自分の身体を諦めて、それでも生きていく方法を自分なりに探っていくための、またはそれらに似た境遇の当事者の灯火となるための文章です。

 ホルモン療法や外科手術など、トランスジェンダーの身体への医療的アプローチ、トランスジェンダー当事者の身体の自己決定権、ひいてはトランスジェンダーの存在そのものを否定するための材料を探しにやってきたトランス差別者たちは、今すぐここから立ち去ってください。

 女性/男性を勝手に定義付けてそこから外れた者に対して執拗なミスジェンダリングを繰り返したり、今現在それぞれの生活実態に合わせてトラブルが起こらないよう安全に慎重に公共空間を使っているトランスたちを公共空間から排除して危険に晒す言説に、私は強く反対しています。

 

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①出生時に割り当てられた性別に押し込められ続ける絶望

②トランス医療には繋がれない、望む身体は諦めなければならない

③身体は諦めても性別は諦めたくない

④生きるヒントを求めて触れた情報の先に

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 性別移行が思うように進められない日々を過ごしている。私が職場でオープンなクィアとして生きているのは、埋没が出来ないからでもある。私は男でも女でもありませんよとしつこく言い続けなければ、しつこく言い続けていても、私はずっと出生時に割り当てられた性別に押し込まれ続けている。男性でも女性でもない性別にとっての『埋没』はない。

 職場で最初に導入された全員通称名制度はいつの間にかなかったことになっていて、私は今日もデッドネーミングされている。ほぼ全員にカミングアウトをしたところで望まない代名詞を使われている。理解があるよという顔をした人から「でも知らない人から見たら【出生時割り当ての性別】にしか見えないよね」とか平然と言われる。

 身体の形状や体内のホルモン、二元的ジェンダー規範に適合した見た目や振る舞いがその人の性別を決める訳ではない。けれど現実には、それらのシスジェンダーが作った不合理なシステムにある程度寄せていかなければ(あるいは寄せたところで)、自分の性別は周りに通用しないとほとんどのトランスジェンダーたちは知っているだろう。本来の自分の性別と社会から扱われる自分の性別の乖離で、引き裂かれそうな痛みを経験していることは当事者によって散々語られている。

 

 

 お金とか、頑丈で健康な心身とか、診断書が貰えそうな確固たるバイナリ―なジェンダーアイデンティティーとか、色んなものが足りていなくて、トランス医療に繋がれない状況だ。私の身体には、無知な周囲を納得させて通用させるだけの『説得力』はない。もしかしたら5年後、10年後は私も社会も違う状況かもしれない。不確かな未来の可能性だけが希望で、でもそんな淡い希望は、通帳の残高と給与明細を見るとすぐに消えてしまいそうになる。

 私は弱い。テストステロン投与の急激な心身の変化に耐えられないであろうどころか、胸を潰す下着をパートタイムで着けることすら難しく、肺が圧迫されて息が苦しくなり心身の調子を崩して職場でパニックを起こしてしまうほど弱い。もちろん、胸オペの費用が稼げたり援助を受けたりできるほどの経済的な強さもない。ミスジェンダリングはどこに行っても当たり前。そんな日常生活で、どうやって自分の身体を諦めないでいられるなんて信じ抜けるのだろう。

 これを読んでいるあなたが想定しているだろうよりも、私は身体への医療的アプローチを何度も何度も真剣に考えた。もしもホルモン投与したら、体臭が変化するだろう、声変わりが来たら嬉しいな、髭が生えたら剃りたい。胸オペが出来たのなら、あの服を着て、堂々と外を歩きたい。部屋の中で服を脱げるようになりたい。

 でも、でも、私は色んな意味で弱かった。ホルモン療法は魔法ではない。私は様々なリスクを加味した上で、これは自分には無理だと判断した。あなたや他のトランスジェンダーたちがホルモン療法を選ぶことを私は決して否定しないし、この文章をホルモン療法やトランス医療、トランスジェンダーの身体の自己決定権、トランスジェンダーの存在そのものを否定する材料にされることは断固として拒否する。

 でも、私には選べなかった。誰よりも自分の身体と付き合ってきた自分が、無理だと判断したのだ。

 「誰だって自分の性別を諦めずに生きる権利がある」

 私は私以外の人間に「自分の身体を諦めろ」と迫ったりはしない。

 けど、他人が簡単に「自分の身体を諦めないで」なんて言わないで。あなたの身体と私の身体は違う。あなたにはできたことが、私にはできないんだ。



 私は自分の身体を今よりも違和感のない状態にすることは諦めている。けれど、自分の性別を諦める気はない。

 

 「誰だって自分の性別を諦めずに生きる権利がある」というのは、痛いほど理想的な正論だ。間違っていない。正しい。そうあるべきだ。だけど「本来そうあるべきだ」と「現在そうである」は違う。今の私の生活実態は、あるべき理想とはかけ離れている。

 私は自分の性別違和を自覚してから現在までずっと、性別移行がままならない。有り体に言えば『パス度が低い』。より正確に言えば、男女二元論が強固に支配する現状では「ノンバイナリ―にとっての『パス』」が存在していないという事実を差し引いても、今の私は出生時に割り当てられた性別としてしか扱われない。どれだけカミングアウトをしても、どれだけ見た目から二元的な性別の記号を曖昧にするための努力をしようと、私が男性でも女性でもないことはほぼ常に忘れられる。

 ジェンダーフルイドで、日によって時期によって性表現の差が大きいことが、ミスジェンダリングの最大の要因ではないかと推察している。それでもノンバイナリージェンダーの私にとっては、男性として生活することと自身の違和が和らぐことはイコールではなくて、自身の違和が和らぐことを優先している。そんな性表現の揺らぎを抱えて、身体は「【出生時に割り当てられた性別】にしか見えない」とか言われる状態。結果として本来の性別としての扱いはどんどん遠くなる。

 

 そもそも性別移行とは「社会から扱われる性別を自分本来の性別に近付けていく作業」であり、その目的を達成するために身体に医療的アプローチをすることが大きく含まれているのは事実だが、唯一の手段ではない。そんなこととっくの昔に知っていたはずだった。だけど実際に私がこの身体でずっと生きてきて、性別移行と身体への医療的なアプローチが必ずしもセットではないことが、我が身に置き換えて考えられなかった。

 トランス女性もトランス男性もノンバイナリーも、身体に医療的なアプローチをしてもしなくても、本人の生活実態に合わせて本来の性別と社会との折り合いを付けながら、たくさんの人たちに紛れてそれぞれ生きている。

 それでも、私がこの身体でいる限り、社会は私を【出生時に割り当てられた性別】として扱うという経験を嫌というほど積み重ねてきたから、「性別移行と身体への医療的なアプローチが必ずしもセットではない」とは、現在実際に通用するかは別の話だと知っている。

 

 性別移行が思うように進まない人たち。

 自分の身体を諦めざるを得ない人たち。

 身体への医療的アプローチを求めているのに、トランスジェンダーである以外の様々な事情で叶えることが難しい人たち。

 違和感と苦痛を抱えたまま、それでも生きていかねばならない人たち。

 「勇気を出して努力して身体を変えて、自分らしく生きられるようになってハッピーエンド」の典型的な物語では掬い上げられない人たち。

 苦痛に満ちた身体への違和を抱えたまま、生まれ持った身体で一生を生きざるを得ない人たちは、どうやって生きればいい?

 どうやったら、私は生きていけるのか?

 

 自分以外のクィアの存在に触れるのに、文章と映画はかなり有効だ。私は普段そんなにたくさん文章や映画に触れてはいないのだが、本当に追い詰められると、情報を求めて探し漁って手当たり次第に触れる。

 以下に、最近読んだ文章を挙げていく。

 

 『現代思想 特集=ルッキズムを考える』古怒田望人/いりやさんの「ままならない交差点:ジェンダークィアのボクが生きてきたこの身体について」

 まず、「見せる/眼差される」身体の種類を変えることは、前述したようないわゆるトランス医療によって身体を変えるだけが手段ではないのだなと強く感じさせられた。服の下を変えるのではなく、装いによって身体を拡張する方法はある。それが私はなかなか上手く実践できていない。二元的なジェンダーから外れようとしても外れようとしても押し戻される。

 だから、装いによって自身の身体へ求められる眼差しをずらす生き方を私より上手く実践している人がいて、その実践が成立しているからこその様々な眼差しから逃れられない痛みや葛藤が、また時として自身の感覚と親和的な体験があることを知れて、私の心は幾分か整理がついた。ジェンダークィアという生き方がある。その姿は、その筆致は、私の中に未来を残した。

 

 『文藝2022秋』高井ゆと里さんの「舌は真ん中から裂ける」

 以前もブログで言及したほど大切な文章だ。男性でも女性でもない人間には、自分にとっての「私」と他人にとっての「私」を結びつけて同一性を与える言葉がない。「この世界には男性か女性のどちらかしかいない」という不条理なシステムから「私」の言葉を奪われている。「私」の、「私たち」の言葉を取り戻すための切実さが、伝わる人に伝わるように描かれた文体で訴えられている。

 私の舌には穴が空いている。私は舌を半分に引き裂けないまま、舌に穴が空いたまま生きていかなければいけない。作中には

幸いにも、私には身体を切り裂いて生きるための蓄えも、体力も、そして運もあった。

との一節がある。この文章は、舌を半分に引き裂けた人たちだけに向けられているのではなく、舌に穴が空いたままの人たち、舌に痛みを感じ始めた人たちにも開かれている。私はそれにすごく安心する。

 

 山内尚さんの「クイーン舶来雑貨店のおやつ」(こちらはフィクションの漫画作品)

 優しくあたたかい小さな世界に包まれながらも、クィアであることによる住居や就労についての問題や、第三者から不躾に性別を判断され続ける日々の痛み、ジェンダーにまつわる苦しみにほとんどのリソースが割かれてしまい他の大事なことがままならなくなる、総じて

生きてるだけでヒリヒリする

という厳しい現実にも触れていた。

 主人公であるノンバイナリ―のジャックが、一話では人前で一人称を使わない話し方をしていた描写が細やかですごいなと印象的だった。個人的には、ジャックのクローゼットがすぐに引っ越せないほどたくさんの服で占められているところと、人前に出る時は誰かに何か言われないよう意識して服装を変えているところがジェンダーフルイドとして共感した。

 

 あと、緊急避難的引っ越しにより現在手元にない

 『シモーヌVOL.5 』の高井ゆと里さん「時計の針を抜く:トランスジェンダーが閉じ込めた時間」

 を悩み苦しんでいる今だからこそ読みたくて買い直した。元はゆと里さんのご厚意で献本していただいたものだったので、今回きちんと版元に還元できてよかったです。

 

 また、ノンバイナリ―・ジェンダークィアではなくトランス男性の枠組みだが

 トーマス・ページ・マクビーさん著(小林玲子さん訳)の「トランスジェンダーの私がボクサーになるまで」

は一年前に初めて読んで衝撃を受けた。それから何度も何度もたくさんマーカーを引いて、つらくなるたびに読んでいる。この本は、私の中の「(自分がなりたかった・過度に理想化された)あこがれの男性像」という幻想を完膚なきまでにぶっ壊してくれた。それは私にとって今も大きな活路となっている。

 周司あきらさんの「トランス男性によるトランスジェンダー男性学

は、今読んでいる最中だ。読みながら、やはり私は男性というジェンダーアイデンティティーではないこととは別に、男性としての生活を望んでいる訳でもないなと再確認した。私は女性ばかりの住居で生活していた経験も男性ばかりの住居で生活していた経験もあるが、どちらにいても自分は異物だと感じていた。男性として生活することが自分にとって違和や苦痛を和らげて「しっくりくる」訳ではないことを既に察しているので、なかなか大きく「男性的なジェンダー表現」へ振りきれないのかもしれない。

 私の中で、「女性ではない」ジェンダーアイデンティティーが確実にあることと、二十年以上「女性」として扱われて積み重ねた人生経験の乖離で、大きな混乱が生じていることに初めて気付いた。そういう面でも、私はシスジェンダーではないのだろう。

 

 本を読むことは他者を知ることで、世界を知ることで、自分を知ることにも繋がる。書かれている全てにしっくり来なかったとしても、ずっと私の血肉となり続けてくれるであろうたった一文に出会えるだけでも意味はあるのだ。



 8月19日~22日はオンラインでトランスジェンダー映画祭2022夏

https://transfilmsummer2022.peatix.com/

もあるし、

 9月には(行けるか分からないけど)第15回関西クィア映画祭2022

https://kansai-qff.org/2022/

もある。今回の関西クィア映画祭のミニ特集はなんと、ノンバイナリーだ!

 

 自分以外のクィアな存在に触れて孤立感を和らげたり、人生の指針を探すのももちろんだし、映画や文章に没頭する時間というのは気分転換としてかなり強度が高いから、どうにも行き詰まってしまったら一回休憩がてらゆっくり映画を観たり文章を読んだりするのもありだと思う。

 触れた作品を媒介にして、他の当事者と語ってみるのも良いかもしれない。他者との対話は時にどうしようもないほど断絶を感じたりもするが、相容れない体験が「自分はどのような人間である/ありたいか」の輪郭を形作るのに役立ってくれたりもする。私はめげずに話し続けたい。




 苦痛に満ちた身体への違和を抱えたまま、生まれ持った身体で一生を生きざるを得ない人たちはどうやって生きればいい?

 どうやったら、私は生きていけるのか?

 その答えは人によっても違うし、その人がいる世界の状況によっても違う。

 だから多分、常に不動の完璧な答えはどこにもなくて、こうやってそれぞれが語りを残していくしかないのだろう。

 

職場のデスクにプライドフラッグ立てちゃおう大作戦 ~その後の経過~

 職場のデスクに、自分のジェンダーアイデンティティーを平易な言葉で書き添えたプライドフラッグを立てて約一ヶ月が経過した。今回は周囲の反応を書き留めたい。

 

 以前の記事でさらっと「職場のデスクにプライドフラッグを立てている」と書いたが、そもそもどういう状況なのかというと、

 

 

 

レインボーフラッグ、「男性でも女性でもありません」と書き込んだノンバイナリ―フラッグ、「日によって性別が変わります」と書き込んだジェンダーフルイドフラッグ。そして割り箸。

 

これを細工して

 

職場のデスクにある大きなディスプレイの上に旗を刺した。

 

 

こういう状態になっている。

 

 

 

 最初は隣の席にいる上司(快く受け入れてくれた)以外ほぼノーコメントだったので「みんなそんなに他人のデスクとか見てないんだなぁ」とぼんやり思っていたが、つい先日「見学に来た外部の方があなたのデスクにぶっ刺さった旗を見てすごい顔をして、それ以降あなたに話しかけなかったよ」と上司に教えてもらい、意外と皆さんの視界に入っていることが発覚した。

 

 その一件をきっかけに、この旗について同じチームの同僚たちから感想を聞けた。

 曰く、「別になんにも気にしてなかった。『そういう人もいるよなぁ』程度に思ってた。むしろ直接口頭で言われるより反応に困らないし分かりやすいから親切では?」「そもそもそれは仕事に関係ないじゃんと思ってる(だから先日の外部の人のように、私のSOGIが不当な評価に繋がるのはおかしいというようなニュアンスだった)」だそうです。

 

 めちゃくちゃ恵まれた環境に感謝する一方、上司のさらに上司や違うチームの同僚など、私のプライドフラッグによるカミングアウトを『都合よく忘れる』人や『見えなかったことにする』人たちもいたので、それとなく話を聞いてみた。

 曰く、「えっww、分かんないです分かんないですww」を繰り返すばかりで話が進まなかった。なので「それは理解を拒否するという認識でOKですか?」と聞いたら「はい」と答えられたので、深追いはせず答えてくれたことに礼を述べてその場を切り上げた。



 分かったことをまとめると

・視覚的に常に示すことによりクィアの不可視化に抗う試みは、(あくまでも恵まれた環境である私の周囲では)ある程度成功した。

・口頭で直接カミングアウトされるより誰でも見れるプロフィールに書いておくみたいな行動の方が、カミングアウトをされる側の負担は少ないこともある。

・どのような方法を取ろうとシスヘテロ以外を受け入れたくない人はいるが、クィアであることをオープンにしているとそういう人はあまりこっちに近寄らなくなるし、性別についての言及は減った。

・ただ、ある程度関係性の下地が出来ている人には有効だったが、全く関わりの無い外部の他人には「近寄りがたい」と遠巻きにされるだけで終わるというリスクもあるので、不特定多数と調和する必要のある場面では悪手になることもある。

 

 もちろん、上記のようなカミングアウトを全員にやれとは言ってないし、全員が同じことを出来る状況だとは微塵も思っていない。薄氷を踏むような状況で、自分のSOGIを隠してなんとか生き延びている人たちもたくさんいると知っている。

 だからこれを読んだ人は、全員が私のようなオープンクィアでいるべきだとは思わないで欲しい。それでも、それぞれに出来ることを無理のない範囲でやっていきたいと私は思っている。少なくとも私には可能な状況だったからやっている。

 というか、私にはこうするしかなかった。堂々とノンバイナリ―でいられる特権と引き換えに、今まで色んな仕事や人間関係を捨ててきた。



 それでは引き続き、仕事や生活をしながら、クィアなノンバイナリ―として男女二元論に抗い生きていきます。

 

「カクレクマノミは『可哀想』?」――海に帰りたかったいつかの備忘録

 今よりは少し以前の話だ。

 

 精神的に限界が目前に迫ると、私は一人で水族館に行く。

 死んだら海に帰りたいと、いつからかずっと思っている。「還りたい」んじゃない、「帰りたい」んだ。私にとっては地上に人間の形で生まれたことが何かの間違いで、本当は海の中に生まれて海の中で生きるはずだったんじゃないかという想いがずっとある。帰りたい。本当の家に、本当の居場所に帰りたい。だから水族館に行く。私は泳げなくて海の中には入れないから。私が一人で進んで海に入る時は、きっと自ら命を投げ出そうとしている時だろう。

 水族館の中は薄暗くて、水面が照明を反射して水槽はどこもキラキラしている。なるべく人の少ない時期の、人の少ない時間帯に行くのが理想だ。海に帰りたくて来ているのに、人間の姿なんて観たくない。それでも、平日の昼間でも、ぽつりぽつりと来館者がいる。

 熱帯魚の水槽にたどり着き、カクレクマノミを見ていた。トランスジェンダーあるあるなのかもしれないが、例に漏れず私もカクレクマノミがうらやましい。その時の私は、性別違和と折り合いがつけられず、この世には男性と女性の二つしか性別という箱が用意されていない現実に打ちのめされ、そんな世界で自分がこれからどうやって生きたいのかも分からずに、だいぶ精神的に追い詰められていた。

 すると、大学生らしき三人組が私の見ている水槽に近付いてきた。疲れている私は警戒して少し離れた。大学生はカクレクマノミを見て、「この魚って一番大きい個体がメスになるんだよね」とその知識を前提として話していて、「オッ、やるな」と大学生たちに好感を持った。昔「片袖の魚」という映画を一緒に観に行った友人は、カクレクマノミの生態を知らなかったから、全員が知ってる情報ではないんだなという認識だった。

 ――けれど、カクレクマノミの前で談笑する大学生の一人が無邪気に言い放った言葉に、私は一瞬で凍り付いた。

「でもクマノミって可哀想だよな、勝手に性転換させられるなんて」

 私の思考はショックでフリーズした。三人は各々の背を比べて、一番背が高い人に「この中ならお前が女だな!w」「やめろよ~!w」「ははは!w」と笑って去っていった。

 可哀想。可哀想。可哀想って何だろう。カクレクマノミに憧れを募らせて割り当てられた性別を捨てたいと望む私は、あの人たちにとっては「可哀想」なのだろうか。

 じゃああの人たちは、メスがオスの育児嚢に産んだ卵で腹を膨らませて稚魚になったら『出産』するオスのタツノオトシゴも可哀想だと思うのだろうか。思うんだろうな、きっと。割り当てられた性別を不自由なく生きられるあの人たちにとっては、カクレクマノミは「性別を勝手に変えさせられる」存在としか捉えられなくて、「性別を勝手に割り当てられて強制される」存在よりもずっと「可哀想」なんだ。海の生き物の生きる世界を人間の尺度で勝手にアレコレ言っている時点で、私もあの人たちも大して変わらないのは事実だが。

 ジェンダーアイデンティティーとバイナリ―な世界のままならなさに悩んでる人間にとっては、この通りすがりの無邪気な残酷さはダメージが大きくて、しばらく呆然としてしまった。

 

 そんな記憶。「昔話」と呼ぶにはふさわしくない程度には私の傷は塞がっておらず、ノンバイナリ―な性別を生きる人たちの状況はほぼ変わっていない。そういう備忘録。

生活をしている――読書、あるいはノンバイナリーとして生きている記録

生活をしている。


世の中あちらもこちらも悪化と混迷を極めているけど、私はTwitterを離れて静かに生活をしている。
色々な情勢の影響と自宅でのストレスで抑うつ状態になって頓服薬が増えた。仕事にも支障を来たし始めたので、自宅から一時的に離れて緊急避難できる場所に移った。夜逃げ同然に30分で荷物をまとめて飛び出したので、色々と物が足りないが、限られた状況の中でも生活をしている。

 

文藝2022秋号を買って、髙井ゆと里さんの「舌は真ん中から裂ける」を読んだ。


あえて直接的な表現ではなく書かれたのであろう痛みについての文章を読みながら、ぼんやりと、私は舌の真ん中に穴が空いたまま舌を二つに裂くことも出来ずに、ただうまく回らない舌で周囲から困惑されたり無視されたりしながら生きているんだなぁと思った。この文章が商業誌に載っていることに、自分の命が無視されず存在しているような気がして、私は少し安心している。

 

 

「ノンバイナリ―がわかる本 ―heでもsheでもない、theyたちのこと」を読んだ。

 

この本を買って読んだきっかけは、山内尚さんと吉野靫さんのトークイベント

(アーカイブ販売はこちら↓)

https://bbarchive220604a.peatix.com/

を配信で見て、引用されている以下の文章でこの本の内容に興味を持ったからだ。

”そしてさらに重要なのは、ジェンダークィアであり続けることです。ノンバイナリ―としてカミングアウトした人は、一度カミングアウトしただけでは、自分の正しいジェンダーとして生き始めることはできません。なぜなら、ノンバイナリ―のジェンダーには「パッシング」というものがないからです。ジェンダークィアの人は、常に自分の存在を説明し、正当化し続けなくてはなりません。“

「ノンバイナリ―がわかる本 ―heでもsheでもない、theyたちのこと」144p‐145pより引用

 

これは、私の生活における実感に非常に近いと感じた記述だった。

私は職場で自分が男性でも女性でもないこと、日によって性別が変わることをほぼカミングアウトしている。しているが、それを受け入れている人は少数だ。排除はされない。面と向かって否定もされない。ただ私が男性でも女性でもなく日によって性別が変わることを無視される。何度カミングアウトしても、私のジェンダーは「都合よく忘れられ」、勝手にバイナリ―な性別の箱の中に押し込められる。

対抗策として、職場の私のデスクにレインボーフラッグとノンバイナリ―フラッグとジェンダーフルイドフラッグ(ノンバイナリ―フラッグとジェンダーフルイドフラッグには平易な言葉で私のジェンダーアイデンティティーを説明する言葉を書き入れた)をぶっ刺してみたが、そもそも浮いてるのか何なのか分からないけど私のデスクに近寄る人ってあんまりいなくて、ミスジェンダリングされた時に旗を指さして簡単に説明したこともあったけどそれも無視されました。私の戦いは続く。たまにその果てしなさに途方に暮れるけど、私の人生は続く。

 

観葉植物を育てている。

小さめの多肉植物

緊急避難前は風呂も洗濯も片付けもできていなかったけど、観葉植物の世話だけは何とかできていた。避難先にも持ってきた。多分、可愛がっているのだと思う。

 

 

生活をしている。生きようとも言えないし生きたいとも思えないけど、生活を積み重ねた先に人生が続いているのだと信じるしかない。

 

 

居場所を追いやられ続ける者達

✕年前、とある婦人科にいた「思春期/セクシュアルマイノリティのカウンセラー」に対して、割り当てられた性別に違和感があると伝えられずに2回ほどでその病院には通わなくなった。

△年前、私に割り当てられた性別が女性であることと私が広義のトランスジェンダーであること、私がヘテロセクシュアルではないことを利用した性暴力や差別、侮辱に曝され続けて、当時一日のほとんどの時間を過ごしていたコミュニティから抜けざるを得なくなった。

◆年前、Twitterで親密だったフォロワーがトランス差別言説を振りかざし始め、その話題になった瞬間急に攻撃的な態度で話が通じなくなるのに怖くなった。この人をブロックしたところで、Twitterにいる限りこれからも同じことが起こり続けるであろうと予感して、身を守るためにアカウントを消した。8年間ずっと使っていた大切な趣味のアカウントだった。

2022年、ピクシブ社が社内で起こったトランスジェンダー女性への性暴力およびSOGIを利用した差別や侮辱などの暴力に対して企業として正当な対応をせず、ピクシブ社と加害者の上司を提訴した被害者に謝罪すらしないという一件が報じられた。詳細な報道を見て涙が止まらなくなり、10年以上使っていたpixivのアカウントを全作品非公開にした。ショップ削除の手続きが済み次第退会する。

トランスジェンダーは居場所を追いやられ続けている。職場、学校、住居、医療、福祉、芸術、趣味、インターネットから現実まで、お前の居場所はここにはないとあらゆるコミュニティから締め出される。
最悪だと思った。クソッタレだと思った。
悔しくて仕方ない。怖くて仕方ない。
私はどこに行けばいいのだろう。どこに行っても、どのプラットフォームでも、また追い出されるかもしれない。


全部憎い。

相互不理解による別れを鋭利に優しく描いた名曲「NG」の解釈で勝つ

者達、ゆっきゅんの1stアルバム「DIVA YOU」はお聴きになりましたか!?!?


配信リンク
https://linkco.re/Hs9C62AU?lang=ja

CD公式通販
https://instagram.thebase.in/items/60795737

「DIVA YOU」特設サイト
https://diva-you.net/

それぞれ違った良さを持つ名曲揃いのこのアルバムの中でも、今回は特に私の心に刺さって抜けなくなった曲、「NG」について語りたい。

上記の特設サイトで歌詞が読めるので、まずはぜひ曲を聴きながら歌詞を読んでみて欲しい。


「NG」は、相互不理解による優しくて残酷な別れを描いた曲だと筆者は思っている。

何でも分かち合えて分かり合えていたと思っていた大切な人との関係が、実は全然分かり合えてたとかじゃなくて相手から一方的な幻想を投影されていただけだと、あたしだけが先に気付いてしまった。一方的に期待されて一方的に尊敬されて、最初から対等なんかじゃなかった。君と笑い合えても、それは奇跡なんかじゃなく何の変哲もないただの趣味でしかない。

『了解、あたし先行くね』
気付いてしまったから、あたしは先に行かずにはいられない。あたしは同じ場所に留まれない。きらめきを見つけては追いかけずにいられなくて、例え大切な人を置いていくことになるとしても、ものすごい早さで進み続ける。
『「向こう岸で君を待とう」とか先週なら言うんだけど』というスピード感。先週のあたしと今のあたしはもう違う人間なのだ。
変わってしまったと君は嘆くかもしれない、でもそれは『変わったんじゃない 無視するのやめただけ』で、君と『同じ夜を泳げている気がしたの』は、「気がした」だけだった。すれ違ったんじゃない、最初から噛み合っていなかった。

多分この曲のあたしは、今までもたくさんの人を置いていった。人間関係の別れの曲は数多くあれど、「NG」は「置いていく側」の心情を歌った曲であることが何より特筆すべきところだと思う。大切な人に置いていかれる悲しみではなく、大切な人を置いていく悲しみ。それはある種の天才が持つ孤独でもあり、とても優しくて、とても傲慢だ。

『こんな似てる君が他人って嬉しい』と、あたしはこんな似てる君と同質化するのではなく、異なる存在として一人きりで成長することを選ぶ。
それでもあたしは君が大切だから、『一生の思い出あげるわ この海で』と、最後まで君にとってのきれいな幻想を与え続けようとする。

この曲の歌い出しは
『了解、君は悪くない』
別れを告げる大切な人にまずかける言葉がそれだということに、優しさと残酷さを感じる。
「君のせいだ」と詰って別れられたら、君もあたしも楽だったはずだ。憎しみは悲しみや痛みを覆い隠してくれるから。なのにあたしがそうしなかったのは、本当に「君は悪くない」からなんだろうと思う。
この「君は悪くない」の中には、一緒に歩幅を合わせられない自分への一抹の罪悪感がある気がする。君は悪くない、けれどあたしは自分を曲げられない。果てない海に飛び込んでも、あたしの『意志は溶けない氷』。止まれない、どうしてもあの果てに行かなきゃいけない。前向きでもあり、やるせなくもある。

そしてあたしと君の別れは、この歌詞で終わる。
『ごめん 会えてよかったよ』
ゆっきゅんの美しい声のフェイクがアウトロに響き渡り、別れの余韻がじんわりと広がっていく。

こんなに鋭利な歌詞なのに、曲調は軽やかで踊るようで、その明るさがどこか寂寞とした空気を感じさせる。朝焼けの白い空、浜辺に君を置いて、あたしは透明な海の中を掻き分けて向こう岸へ進んでいく。
筆者には「NG」を聞くとそんな風景が見えて、近い将来訪れるであろう友人との別れを予感して切なくなる。そんな前向きな切なさに寄り添ってくれる曲だった。

イントロの一番最初、合間にすごく小さな音で「ah ah」「uh ah」とゆっきゅんの吐息が入ってると思うんだけど、その中に吐息で「OK」と聞こえる箇所がある。空耳歌詞かもしれないが、イントロの吐息に「OK」を忍ばせて、歌い出しが「了解」で、曲のタイトルが「NG」。

解釈の余地はまだまだ終わらない。