君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

「カクレクマノミは『可哀想』?」――海に帰りたかったいつかの備忘録

 今よりは少し以前の話だ。

 

 精神的に限界が目前に迫ると、私は一人で水族館に行く。

 死んだら海に帰りたいと、いつからかずっと思っている。「還りたい」んじゃない、「帰りたい」んだ。私にとっては地上に人間の形で生まれたことが何かの間違いで、本当は海の中に生まれて海の中で生きるはずだったんじゃないかという想いがずっとある。帰りたい。本当の家に、本当の居場所に帰りたい。だから水族館に行く。私は泳げなくて海の中には入れないから。私が一人で進んで海に入る時は、きっと自ら命を投げ出そうとしている時だろう。

 水族館の中は薄暗くて、水面が照明を反射して水槽はどこもキラキラしている。なるべく人の少ない時期の、人の少ない時間帯に行くのが理想だ。海に帰りたくて来ているのに、人間の姿なんて観たくない。それでも、平日の昼間でも、ぽつりぽつりと来館者がいる。

 熱帯魚の水槽にたどり着き、カクレクマノミを見ていた。トランスジェンダーあるあるなのかもしれないが、例に漏れず私もカクレクマノミがうらやましい。その時の私は、性別違和と折り合いがつけられず、この世には男性と女性の二つしか性別という箱が用意されていない現実に打ちのめされ、そんな世界で自分がこれからどうやって生きたいのかも分からずに、だいぶ精神的に追い詰められていた。

 すると、大学生らしき三人組が私の見ている水槽に近付いてきた。疲れている私は警戒して少し離れた。大学生はカクレクマノミを見て、「この魚って一番大きい個体がメスになるんだよね」とその知識を前提として話していて、「オッ、やるな」と大学生たちに好感を持った。昔「片袖の魚」という映画を一緒に観に行った友人は、カクレクマノミの生態を知らなかったから、全員が知ってる情報ではないんだなという認識だった。

 ――けれど、カクレクマノミの前で談笑する大学生の一人が無邪気に言い放った言葉に、私は一瞬で凍り付いた。

「でもクマノミって可哀想だよな、勝手に性転換させられるなんて」

 私の思考はショックでフリーズした。三人は各々の背を比べて、一番背が高い人に「この中ならお前が女だな!w」「やめろよ~!w」「ははは!w」と笑って去っていった。

 可哀想。可哀想。可哀想って何だろう。カクレクマノミに憧れを募らせて割り当てられた性別を捨てたいと望む私は、あの人たちにとっては「可哀想」なのだろうか。

 じゃああの人たちは、メスがオスの育児嚢に産んだ卵で腹を膨らませて稚魚になったら『出産』するオスのタツノオトシゴも可哀想だと思うのだろうか。思うんだろうな、きっと。割り当てられた性別を不自由なく生きられるあの人たちにとっては、カクレクマノミは「性別を勝手に変えさせられる」存在としか捉えられなくて、「性別を勝手に割り当てられて強制される」存在よりもずっと「可哀想」なんだ。海の生き物の生きる世界を人間の尺度で勝手にアレコレ言っている時点で、私もあの人たちも大して変わらないのは事実だが。

 ジェンダーアイデンティティーとバイナリ―な世界のままならなさに悩んでる人間にとっては、この通りすがりの無邪気な残酷さはダメージが大きくて、しばらく呆然としてしまった。

 

 そんな記憶。「昔話」と呼ぶにはふさわしくない程度には私の傷は塞がっておらず、ノンバイナリ―な性別を生きる人たちの状況はほぼ変わっていない。そういう備忘録。