君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

その行動の主体者は誰だ?

 とあるデモからの帰り道、ふと自分が「やるべきことをやっている」と思っていると自覚し、すぐにその危険さに気付いて思い直した。

 本当は「やるべきこと」なんて何もなくて、全部その人がやりたいからやってるのだと。

 これは「どっちもどっち」とか中立のつもりで権力側に阿るノンポリ自己責任論みたいなことが言いたいのではなく、主体者は誰なのかという話をしている。

 主体者が自分ではない行為を長く続けるのは難しい。社会運動と生活のバランスが取れずに燃え尽きて崩れがちな人が散見されるのは、主体者が自分ではない状態で活動を行っているからではないのか。

 

 主体者は自分だ。あなたがやりたくてやってることなら誰にも止められないが、「周囲がやってるからやった方がいいんじゃないか」という感覚でやっているなら、一度立ち止まって考えて欲しい。デモに行くこと、本を読み学ぶこと、ハッシュタグアクティビズムに参加すること、差別的な行いをする著名人の書籍やCDを買わないこと、Twitterのbioにトランスフラッグの絵文字を添えること。

 

 主体者は誰なのか。それを明確にしないと、今まさに抗おうとしている大きなものにいともたやすく飲み込まれてしまう。あの日、デモからの帰り道を歩く私は、大きなものに飲み込まれてかけていた。それは本末転倒なのではないか。

 

 私は全部、やりたくてやってるんだよ。やりたくないことはやりたくないからやってないんだよ。誰かにやらされているのではない。誰かにやめさせられているのではない。私の人生の主体者は常に私だ。