君の宝石は絶対に割れない

それでも私は生きていく

ノンバイナリー(ジェンダーフルイド)の私と、服を選ぶ悲喜こもごも

服が着たい。服が欲しい。服を選ぶのが好きだ。服を着たくない。どんな服を着ればいいのか分からない。どんな服もしっくりこない。服を選ぶのが嫌いだ。

私はファッションに関心があり、服を選んで着る行為を楽しんでいる。それと同時に、朝出かける前に服を選ぶのが苦しくて、どんな服を選べば人前に出てみじめさを感じなくなるのか未だに分からない。


私が服を選んで着るという行為を愛しつつも趣味のそれではない種類の葛藤を抱えていることと、私がノンバイナリーを軸足に置いたジェンダーフルイド(gender fluid)であること、表現したいジェンダー(Gender Expression)が流動的であることは決して無関係ではないと思っている。

私は自分の表現したいジェンダーがいかに流動的で移り変わりやすいかをよく知ってるため、その時表現したいジェンダーにすぐ対応できるように、色んな系統の服がたくさんある。何年も着ていない服でも、ある日突然「これだ!!」としっくりきてヘビロテで着まくることがあるので、全く服が捨てられない。
どれをどう組み合わせて着ればいいのか、楽しく悩む時もあるし、苦しく悩む時もある。私の場合、後者にはほぼ必ず性別違和が絡んでいる。


朝、パジャマを脱いで服を選ぶ。あれでもない、これでもない。どれをどう組み合わせれば、私は私の身体を一番「しっくりくる」ものとして受け止められるのか。

私は現在、ホルモン療法や外科的手術を望まないで、代わりに髪型や衣服によって「調整」をすることで日々揺らぐ己の性別と折り合いをつけて生活している。※1
でも、「調整」が上手くいかない日もある。これを着たら男性ジェンダーに寄りすぎてしまう、かといってこっちを着たら女性ジェンダーに寄りすぎてしまう。組み合わせたら上手い具合に中和されないだろうか。あるいはもっと派手なものを着れば存在感によって性別を掻き消せるのか。あ~~、こんなに服があるのに服が足りない!!

何をどう着れば、私は男でも女でもない姿になれるんだろう。家を出なければならない時間だけが刻々と迫り、散乱した服の中で下着姿で泣くみじめさが、ノンバイナリージェンダーの存在そのものを否定する人たちには伝わるだろうか。

かっちりとした襟つきシャツにジャケットにパンツを合わせて、かっこよくキメた自分の姿に朝は「しっくりきて」も、電車でスーツ姿のシュッとした体型のサラリーマンとかに隣に座られると、途端に自分がみじめでみっともなくて今すぐ家に帰りたくなる。
黒と白のスラッとしたかわいいロング丈ワンピースを着て「しっくりきた」日でも、駅の鏡に映る自分が自分ではない女に見えてきて気持ち悪い違和感を抱いてしまう。何を着てもしっくりくるようでしっくりこない。私は男でも女でもないのに。

苦しい、悩ましい、どうすればいいんだ。

けど、それでも私はどうやらファッションが好きらしいと、最近になってようやく自覚した。お気に入りのコーディネートを写真に撮って、友人とLINEで送り合うぐらいには、服を選んで着ることを楽しんでいる。
欲しい服は常にたくさんある。考えて、選んで、買って、着て、とてもワクワクして心が踊る。私の飽くなき服への欲望は、決して苦しみのみで構成されてはいない。


多分、この悩みに出口はない。私の性別が移り変わり続ける限り、答えはその時々で常に移り変わる。その時の自分にとっての最適解を探す旅は、もしかしたら一生続くかもしれない。

せめて願わくは、着道楽と流動的なジェンダーアイデンティティについての物語や私的な語りがもっともっと聞きたい。私にはそれが必要だ。他にもその語りをを必要としている人がきっとどこかにいるだろうから、一例としてこうして一人の存在を記しておくことにして、文章を締めようと思う。


あなたがあなたを苦しめない服を着て生きられますように。



※1:そういう面では、私はシスジェンダーともトランスジェンダーとも微妙に異なる体験・生活をしているので、シス/トランスのどちらにもアイデンティファイ出来ないし、シス/トランスの単純化された二元論も受け入れられない。シスジェンダートランスジェンダーの境目を揺らぎながら漂う所在のなさ。誰にも「男でも女でもない」存在を信じてもらえない心許なさ。ノンバイナリーとしてそれらを主張すること自体が、今まさに差別者からの心ない攻撃に晒されながらも必死に抵抗し生き延びているバイナリートランスたちの足を引っ張るのではないかという躊躇がある。けれども私は広い範囲で、トランスジェンダーとともに連帯したい。